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東京地方裁判所 昭和27年(行)9号 判決

原告 町中ミスヱ

被告 社会保険審査会

主文

社会保険審査会(昭和二十五年法律第四十七号によるもの)が昭和二十六年十月二十三日附を以て為した、原告の不服申立は立たないものとする旨の審査決定の無効確認を求める原告の請求はこれを棄却する。

前項の審査決定はこれを取消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「社会保険審査会(昭和二十五年法律第四十七号によるもの。以下旧審査会と言ふ。)が昭和二十六年十月二十三日附を以て為した、原告の不服申立は立たないものとする旨の審査決定が無効であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求める、右請求が容れられないときは「右審査決定を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求める旨申立て、請求の原因として、

「訴外町中勇は船員保険の被保険者であり、昭和二十五年十月二十七日訴外川南工業株式会社に船員として雇入れられて以西底曳網機船第十五金章丸に乗組み漁撈の目的で長崎港外香焼島を出港し、同月三十日午後二時頃漁場に到達し、漁撈に従事して居たが、十一月三日作業中身体に異常を生じ、その為同日午後八時四十分頃死亡した。

勇の妻であつた原告は訴外厚生大臣に対し勇の死亡が船員保険法第五十条第三号に所謂職務上の事由に因るものであることを理由として保険給付を請求したが、同大臣は原告の請求を理由なしとして棄却する決定を為したので、原告はその定決について訴外長崎県社会保険審査官に対して不服を申立てた処、同審査官は原告の申立相立たずとする決定を為した。そこで原告は更にその決定について旧審査会に対して不服を申立てたが旧審査会は昭和二十六年十月二十三日附を以て、勇の死亡が職務上の事由に因るものに該当しないとの見解の下に原告の不服申立は立たないものとする旨の決定を為して原告に通知した。

一、旧審査会の右審査決定は、同会の委員十四名が出席して原告の申立を審議し、表決の結果勇の死亡が職務上の事由に因るものであり、原告の申立は理由があるとする委員七名、理由なしとする委員が七名となり可否同数に分れたのであるが、その際原告の申立を理由なしとする七名の委員の中に旧審査会の会長が含まれて居た処から、同会長が右委員としての表決権の外になほ可否同数の場合に会長として可否を決定する権限があるとして、右原告の申立を理由なしとすることに決定することとした為に、為されたのである。然しながら昭和二十五年法律第四十七号は旧審査会の会長に右の如き二重の権限を附与して居るものではない。同法によると旧審査会は被保険者代表、事業主代表、公益代表それぞれ六名宛の委員によつて構成されるものと定めて居り、各利益代表間の均衡の上に議事の運営を図らうとして居るのである。然るに会長に委員としての表決権、会長としての決定権と言ふ二重の権限を認めるならば、それは会長の属する階層のみ七名の委員を有するのと撰ぶ処なく、同法の意図する利益代表の均衡の趣旨が沒却されると言ふ不当な結果を招来することになるのである。従つて会長も旧審査会を構成する委員の一員であるけれども、同法第二十八条において「審査会の議事は出席した委員の過半数を以て決し、可否同数の時は会長の決する処による」と定めて居る趣旨は、会長が委員としての表決権を有しないことを当然の前提として居るものと言はなくてはならない。されば会長が、会長としての決定権の外に、同法の認めない委員としての表決権を行使した結果為されたものである本件審査決定は、同法の定めた手続に違背し、当然に無効なものである。よつてその無効なることの確認を求めるものである。

二、仮に本件審査決定が無効でないとしても、以下に述べる違法があり、取消を免れないものである。

(一)  勇は昭和二十五年十月三十日午後二時頃漁場に到達し、甲板長として漁撈に従事中同年十一月三日午後七時三十分頃網揚げを始めようとした際俄に肩に疼痛を愬へ暫時休憩したが甲板長の任務は網揚げ中その持場を離れることができないので再び作業に従事したのでその為作業終了後肩の痺れに襲はれ、同日午後八時四十分頃心臟痲痺と思われる死因により死亡するに至つたのである。勇は乗船前の昭和二十五年九月三十日行われた健康診断において心雜音のあることが発見されて居りそのことから心臟機能に障害があつたものと推察されるのであるが、右航海において三十日漁場に到達した後の漁獲は通例に比して極めて豊漁であり、一網に少ない時で五十函、多い時は百函にも達し、三十日から四日間に十四網八百函の漁獲があつたのであり、これに対応して作業も通常の航海に比して著しく激しいものであり、勇は毎日朝三時半から深夜十一時過迄連続して全船員中最も激務である甲板長の職務を果して居たのであつて、かかる異常な激務の結果勇の意識しなかつた程度の右心臟機能障碍が急激に悪化し遂に死亡するに至つたものであるから、勇の死亡が職務上の事由に因るものであることは明らかである。

(二)  仮に勇の死亡した右航海当時の作業が以西底曳網機船の甲板長の作業として異常に激烈なものとは言へないとしても勇の乗船した第十五金章丸には診療を受くべき医師も居らず、医療施設もなかつたので、勇は漁場到達後身体の異状を知るに由ないままで、船員一般の作業に比し非常な激務である甲板長の職務に従事した為に心臟疾患の増悪を来たし、遂に死の転機をとるに至つたのであるから、勇の死亡は職務上の事由に因るものと言ふべきである。

よつて勇の死亡が職務上の事由に因るものでないとの見解の下に為された本件審査決定は違法であるから、その取消を求めるものである。」と述べ、

証拠として甲第一、第二号証、第三号証の一、二、第四、第五号証を提出し、鑑定人増田素一郎の鑑定の結果、検証の各結果及び証人松脇政吉、別宮小三郎、宇野善九郎、笹象治の各証言並びに原告本人訊問の結果を援用し、乙号各証の原本の存在並びに成立は認めると述べた。

被告訴訟代理人は、原告の請求はいづれも棄却する、との判決を求め、

「原告主張事実中、勇が船員保険の被保険者であつたこと、勇が昭和二十五年十月二十五日川南工業株式会社に船員として雇入れられ、以西底曳網漁船第十五金章丸に乗組み、長崎港外香焼島を出港し、同年十月三十日漁場に到達し、甲板長として漁撈に従事して居たが十一月三日死亡したこと、勇の妻であつた原告が勇の右死亡を職務上の事由に因る死亡に該当するものとして厚生大臣に保険給付を請求し、厚生大臣がその請求を棄却したこと、原告は長崎県社会保険審査官に不服申立を為し、同審査官は原告の不服申立相立たずとする決定をしたこと、原告が更に旧審査会に不服申立をし、旧審査会が昭和二十六年十月二十三日附で原告の不服申立相立たずとする決定を為したことは認める。

一、旧審査会が本件審査決定において原告の不服申立を理由なしとすることに決定したのは委員十四名が出席し、勇の死亡が職務上の事由に因るものに該当するとする委員が七名、該当せずとする委員が会長をも含めて七名となり、可否同数となつたので、会長が昭和二十五年法律第四十七号第二十八条によつて原告の申立を理由なしとすることに決定したことによるものであることは原告主張の通りである。旧審査会は公益、被保険者、事業主三階層代表それぞれ六名宛を以て構成されることになつて居り、その公益委員の中から互選によつて会長が選ばれるものであるから、会長は委員たる資格をも備へて居るのである。従つて会長について特に委員としての表決権を奪ふ趣旨の規定等がない限り会長が委員としての表決権を有することは当然である。元来多数決において可否同数となることは稀な事例であり、同法第二十八条後段の規定はかかる稀な事例に対処する為の規定である。若し原告主張の様に会長の委員としての表決権が剥奪されるとするならば右の様な稀な事例に対処する為公益代表一委員の表決権を恒常的に奪ふこととなり、各代表間の均衡を破るといふ不合理では原告の言ふ処より更に大である。同条後段は多数決の原則において可否同数と言ふ稀な事例について、多数決原理の例外としてその場合にのみ委員会の会長と言ふ機関に対して特に与へられた決定権を規定するものであつて、かかる決定権は委員としての表決権とその性質を異にするものである。されば本件審査決定において、原告の不服申立を理由ありとするか否かについて可否同数となつた際理由なしとする委員の一員であつた会長が同法第二十八条によつて原告の不服申立を理由なしとすることに決定したことは何等違法の措置ではない。仮に会長が委員としての表決権を有しないとされても、それによる違法は本件審査決定の為される手続上の瑕疵に過ぎないから、かかる瑕疵ありとの故に本件審査決定を無効と言ふことはできない。

二、原告主張の予備的請求原因事実については勇は昭和二十五年十月二十五日川南工業株式会社に船員として雇入れられ、第十五金章丸に乗組み、漁撈の目的で香焼島を出港し、十月三十日午後二時頃漁場に到達し、以後甲板長として、漁撈に従事して居たが、十一月三日午後七時三十分頃網揚げを開始しようとした際急に肩の痛みを愬へ、暫時休憩の後自ら作業に従事し網揚を終了する頃再び肩が痺れたと言つて司厨室で休息して居たが、同日午後八時四十分頃死亡したと言ふのが死亡迄の概要である。同船は十一月七日帰港し、勇の屍体検案の結果その死亡は心臟痲痺に因るものと診断された。元来船員保険法第五十条の所謂職務上の事由に因り死亡したものと認められる為には、死亡者の従つて居た職務とその死因との間に相当因果関係があるものと認められる場合に限られるのであるが、心臟痲痺に因る死亡が職務と相当因果関係ありとされる為には死亡者がその従事して居た職務遂行中に外的災害を受け、それによつて死亡した場合であるか、又は死亡の原因が発生した当時従事して居た業務が通常時に比して特別に激しいものであつた等何等か特別の事情がある場合即ち業務に異常性がある場合であつて、死亡の原因がその異常性によつて発生した場合に限られるのである。ところが勇が右作業中に外的災害を受けた事実は全くないし、又勇が当時従事して居た業務は特に激烈であつたとする事実も存在しないのである。以西底曳網機船は通常漁場到達後二、三週間操業し、一定量の漁獲を得て帰港するのが普通であるが、勇は十月三十日漁場に到達し、十一月三日に死亡したので、その作業期間も短かく、出港以来十一月三日迄に天候が不良であつたと言ふ事実もないから、以西底曳網漁船の甲板長の職務がそれ自体相当の激務であることは事実であるが、勇の死亡迄の業務が通常に比して特別に激しいものであつたと言ふことはできない。勇については昭和二十五年九月三十日の健康診断において心雜音が聴取されており、勇は右漁場に到達し作業を開始した日の前後から既に顏色は蒼白となり、身体の工合の悪いことを洩らし、肩が凝ると言つて同船の通信士訴外福田実に肩を揉ませた事実もあるのであつて、勇には既に心臟疾患があつて、その徴候も発現して居たものが、通常の作業過程においてその疾患の誘発乃至増悪を見、遂に死の転機をとるに至つたものと推察されるので、勇の死亡は作業の異常性をその原因とするものとは言ひ得ない。されば本件審査決定には原告主張の様な瑕疵は存しないのである。」と述べ、

証拠として、乙第一号証の一、二、第二、第三号証、第四号証の一、二、第五乃至第十三号証、第十四号証の一、二、第十五、第十六号証、第十七号証の一、二、第十八号証、第十九号証の一、二を提出し、鑑定人横田素一郎の鑑定の結果、検証の各結果及び証人松脇政吉、高橋正義、池辺道隆の各証言並びに原告本人訊問の結果を援用し、甲第一、第二号証の成立は認める、甲第三号証の一、二、第四、第五号証の原本の存在並びに成立は認めると述べた。

理由

訴外町中勇が船員保険の被保険者であつたこと、勇が訴外川南工業株式会社に船員として雇入れられ、第十五金章丸に乗組み、以西底曳網漁撈の目的で長崎港外香焼島を出港し、昭和二十五年十月三十日午後二時頃漁場に到達し、以後漁撈に従事して居たが、十一月三日死亡したこと、勇の妻であつた原告が勇の右死亡が船員保険法第五十条に所謂職務上の事由に困るものに該当するとして厚生大臣に対し保険給付を請求し、厚生大臣がその請求を棄却したこと、原告は長崎県社会保険審査官に不服申立を為し、同審査官は原告の不服申立相立たずとする決定をしたこと、原告が更に旧審査会に不服を申立て、旧審査会が昭和二十六年十月二十三日附で原告の不服申立は立たないものとする決定をしたことは当事者間に争がない。

一、本件審査決定の無効確認を求める請求について

本件審査決定において原告の不服申立を理由なしとすることに決定したのは、委員十四名が出席し、勇の死亡が職務上の事由に因るものに該当するとする委員七名、職務上の事由に因るものに該当しないとする委員七名の可否同数に分れた際、職務上の事由に因るものに該当しないとする委員中に会長が含まれて居た処から会長において昭和二十五年法律第四十七号第二十八条により原告の不服申立を理由なしとすることに決定した結果、本件審査決定が為されたものであることは当事者間に争がない。同法第二十四条によると、旧審査会は被保険者の利益を代表する委員、事業主及び船舶所有者の利益を代表する委員、公益を代表する委員各六名によつて構成されることとなつて居り、第二十六条によると公益を代表する委員の中から委員の選挙した会長一人を置くこととなつて居る。従つて旧審査会の会長は旧審査会を構成する委員の一員であることは明らかである。同法第二十八条前段によれば旧審査会の議事は出席した委員の過半数を以て決することになつて居り、前述の如く会長も旧審査会を構成する委員の一員である以上、特段の規定のない限り会長も右に所謂委員の中に含まれるものと言はなくてはならない。原告は同条後段の関係から各利益代表間の均衡を破ることを理由として会長の委員としての表決権を否定するが、会長の委員としての表決権を否定しても原告の言ふ各利益代表間の均衡の否定と言ふ結果の生ずることのあるは論理上明らかであつて、独り会長に委員としての表決権を認める場合のみに限られるものではない。前述の如く会長は公益を代表する委員の中から選出されるものであり、他の二階層の代表委員に比して中立的地位に立つとされる者に限定されると言ふ配慮が加へられて居ることから見て、同条後段は可否同数の場合にのみ利益代表の均衡といふ見地を離れて、中立的立場にあるとされる者によつて可否を決せしめようとする趣旨と解される。その限りでは会長の委員としての表決権の有無には直接の関係はないのであつて会長が委員の一員であること前述の通りであり、又特に委員としての表決権を奪ふ趣旨の規定もないから、第二十八条が、会長に委員としての表決権がないことを前提とするものとは解し難い。その字義通りに会長をも含めて各委員が表決権を有し、その表決権行使の結果可否同数となつた場合には会長が表決権とは別にその可否を決定することができるものとする趣旨と解するのが相当である。従つて本件審査決定が為されるについて原告の不服申立を理由ありとするか否かを決する際会長をも含めて委員の表決が七対七の可否同数に分れた時、会長が第二十八条に基き原告の不服申立を理由なしとすることに決定したこと自体は何等違法の措置ではない。

さればこの点の原告の請求は棄却を免れない。

二、本件審査決定の取消を求める請求について

船員保険法は一般に被保険者並びに被保険者に依り生計を維持する者の疾病等に関し保険給付を為すことを定め、その保険事故に職務上の事由に因るものと然らざるもの(職務外の事由に因るもの)とを区別し、前者の場合を後者の場合に比して保険給付上優遇するの措置を採ることとして居る。同法においては、職務上、職務外の区別についての具体的基準を直接明らかにして居ないが、同法に定める被保険者についての保険事故は船員としての業務に全く関係のないものから、その関係が極めて密接なものまで、種々の段階が考へられるわけであり、その中職務上の事由に因るものとされる保険事故が発生した場合の優遇措置から考へて被保険者の保険事故の中船員としての職務との間にある程度の密接な関係にあるものを特に職務上の事由に因るものとして他と区別したものと解される。職務上の事由に因る保険事故とは字義通りには被保険者が船員としての当該職務に従事したが為に保険事故が発生したものと判断される保険事故を言ふものである。従つて保険事故と船員の職務との間の右の密接さは因果関係における密接さと言ふことになる。ところで純理論より云へば因果関係とは一定の先行事実と後行事実との間に、その先行事実がなかつたならば後行事実が発生しなかつたであらうと見られる関係である。かかる関係は極めて広汎に亘つて考へられるものであるから、船員としての業務に従事したことと右の様な関係に立つ保険事故をすべて職務上の事由に因るものとする時は、殆んど職務上、職務外の区別を為し難くなる。されば職務上の事由による保険事故は船員としての職務に従事したことと苟も因果の関係に立つ一切の保険事故を意味するものとは解し難い。凡そ法律が因果関係を採上げる場合は右の如き広汎な概念をそのまま採用するのではなく、法の目的(これについては後述)よりする一定の標準を設けてこれに適合するものだけを採上げるのである。元来数多くの因果の関係の中には経験則上社会的事情として極めて稀有なものから、通常の事例となつている定型的な場合(頻度性の多寡)迄、種々の類型が存するが、前述の関係の密接さとは、この定型性の度合の問題である。通常相当因果関係ありと言はれるのは、先行事実と後行事実との間に、社会的に見て先行事実があれば一般に後行事実が発生すると予想される因果関係のある場合であつて、高度の社会的定型性を具へた場合である。被告はその主張する相当因果関係のある場合として職務遂行中の外傷等の災害のあつた場合を一般的に挙げて居るが、当該職務が発生した為の外的災害を惹起することが一般に予想される関係にある場合にだけ法律上通常用ひられる意味での相当因果関係があるものとされることであらう。そこで問題はこの社会的定型性の度合如何である。この度合の基準を定めるものは職務上、職務外の区別を為した理由換言すれば法の目的に関わりがある筈である。前述の如く保険事故には船員の職務に全く関係のないものも、(被保険者以外の者についての事故をも含む)含まれて居るのであるから、極めて微温的ではあつても生活補償の意味を含む趣旨のものであることは明らかであり、右趣旨と船員の職務にある程度以上の密接さを持つ保険事故について無関係のものより保険給付上優遇する措置を採ることとを対照すると、職務上の事由に因る保険事故について保険給付上優遇するのは、船員が船員としての職務に就くことに於て、然らざる時よりも、より多く諸種の危険に遭遇することが予想されるからであると考へられる。即ち被保険者が船員としての職務に就くことにおいてより多く面すると予想される危険が現実となり、保険事故が発生したとき、その加重されて居た危険に対応してその補償を行はうとする趣旨と解されるのである。船員保険が「マガリナリ」にも社会保険の機能を持つものである以上職務上の事由に因る保険事故についての保険給付を、船員に対する恩恵的ないし特権附与的なものと解すべきものでないことは云ふまでもない。この船員の職務に就くことにおいて然らざる時より、より多く危険に面すると言ふことが前述の定型性の度合の基準を与へる。即ち前述の定型性の度合とは、船員の当該職務が社会的に見て内に持つと考へられる保険事故の原因発生の危険性の範囲と言ふことである。通常用ひられる意味での相当因果関係の程度に達した高度の定型性まで必要とするものではない。被告の言ふ外的災害、作業の異常性等は多くの場合前説示の危険性の範囲内のものであることが明瞭な事例であらうが、かかる事例に限定されることなく当該保険事故が船員の職務が内に持つ危険性の範囲内のものであることを以て定るのである。

以上の処からして、船員保険法において職務上の事由による保険事故とは被保険者について発生した保険事故が、被保険者が船員としての職務に従事したが為に発生したもので、然もその発生した保険事故が船員としての職務が惹起せしめる危険性の範囲内である様な事由に因る保険事故であると解することができる。そこで右の観点から勇の死亡が職務上の事由に因るものであるかどうかについて検討することとする。

勇は昭和二十五年九月三十日健康診断を受けた際心雑音があり、船員として第十五金章丸に乗組み、以西底曳網漁撈の目的で香焼島を出港し、十月三十日漁場に到達し甲板長として漁撈に従事して居たが、十一月三日午後八時四十分頃死亡したものであることは当事者間に争がなく、証人松脇政吉の証言によれば、勇は十一月三日午後七時三十分頃開始された網揚げにおいて、右舷でワイヤー捲取り作業に従事して居たが、その際身体の工合が悪くなり、一度司厨室に入つて休憩したが、ワイヤーを捲終り、ロープを引揚げて居た頃再び作業に従事して居たところ、漁網を船上に引揚げる頃再度身体の工合の悪いことを愬へ、司厨室に入つて休憩して居たが、勇が胸の苦しみと死の予感を愬へるので同証人はコロダインを茶椀に一杯と大蒜の汁を飮ませたこと。勇はその後用便に起ち、気分がよいと言つて眠に入つたが約十分にして死亡したものであることが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。ところで鑑定人増田素一郎の鑑定の結果によれば、勇の前示第二回に亘る身体の異状は何れも労作時狭心症(Arbits,angins)の発作であり、同人には冠状動脈の梅毒性変化に因る心筋変性症があつたこと。狭心症の発作は多く肉体的労作時に起るものであることが認められ、又作業状況について検証の結果並びに証人松脇政吉の証言によれば以西底曳漁撈作業が激しい労働であること(以西底曳漁船の甲板長の労働が相当の激務であることは被告も認めるところである。)が認められる。以上の各認定に係る事実と前示鑑定人の鑑定の結果とを綜合すれば勇の第一回の発作は心筋変性症と云ふ素地のあるところに激しい労働がなされたために起つたものであつて以西底曳網漁撈作業の為め惹起されたものであり、第二回の発作は第一回の発作後絶対に必要な安静を守らず、再び作業に従事した為めに起つたもので同じく作業に起因するものであると断ぜざるを得ない。尤も勇に冠状動脈の梅毒性変化による心筋変性症があつたことはすでに述べた通りであるが原本の存在並びに成立に争のない乙第十四号証の二によれば勇の妻である原告について昭和二十六年十月二日行われた梅毒反応検査の結果は村田氏法によつてもカーン氏法によつても、何れも陰性であつたことが認められるし、又成立に争のない甲第二号証、原本の存在並びに成立に争のない乙第十七号証の一及び証人別宮小三郎の証言を綜合すれば勇は昭和二十五年九月三十日の健康診断の際、心雜音のあつた外は異状は発見されず、その心雜音も診断に当つた医師において自らその記載した所見を抹消する程度のものであつたことが認められ、更に証人松脇政吉の証言によれば勇は同年十月五日頃から二十二、三日頃まで以西底曳網漁撈に従事して居り、かなりの豊漁であつたが勇の身体には格別の異状もなかつたことが認められるので、以上の各事実よりすれば、同年十月から十一月にかけて勇の梅毒疾患が急激に悪化したと云ふような特段の事情を認めさせる証拠のない本件では、梅毒疾患の進行により前述の冠状動脈の梅毒性変化による心筋変性症が亢進した結果、勇の本件狭心症の発作を招来したものとはなし難い。

さて上来説示したところにより第一、二回の狭心症の発作が勇の従事した作業に起因するものであることが明らかとなつたが、更に右発作と勇の死亡との関係について考へねばならない。第一回の発作が直接死への転換となることなく終了したことは前記認定の経過よりして明らかである。第二回の発作が起つて休息中に勇は排尿して後は気分がよくなつたと言つて眠に入つたことは前示認定の通りであり前示鑑定人の鑑定の結果によると右排尿は痙性多尿であつて狭心症発作の終了を告げるものであること、並びに狭心症発作による死亡は発作の初期におけるものが多く、発作が延長してその間に心臟が衰弱して死亡することの稀であることが認められるから、発作後勇が適当な治療を受け且必要な絶対安静を守つて居たならば他に特別な事情のない限り、当時において勇が死亡することは或ひはなかつたのではないかとの推察が成立つ余地があるが、そのことは現実に起つた勇の死亡が極量を超えたコロダインの投与のみに因るものとの結論を帰結するわけではない。その様な帰結が許される為めには発作による心臟衰弱の有無に拘らず投与されたコロダインによつて死の転機をとつたであらうと判断されることが必要である。ところが前示鑑定の結果によると心臟疾患ある者にクロロフオルムを含有するコロダインを投与すること、然も極量を超えて投与することが極めて危険なことであることは認められるのであるが、勇の心臟疾患がそのコロダインの投与だけで死の転機をとるであらうと認めるに足る証拠はなく、更に右鑑定の結果によると勇の死亡は再度の発作を起した上に治療を施さず、却つて心臟に対する有害物を極量を超えて服用したことによるものと推定されるのであるから、勇の死亡には狭心発作がその一因となつて居るものと言ふべきである。狭心症発作はそれ自体生命の危険を伴ふものであり又その事後の措置の当否によつて生命の危険があるものであるのに勇の発作後適当な薬物を用ひず却つて有害物を服用したのは遺憾であつたが、証人宇野善九郎、松脇政吉の各証言によると、勇の乗組んで居た第十五金章丸には医師も居らず適当な医療資材もないものであることが認められるので、右の如き狭心症発作に対する適当な治療を期待することは不可能であり、右の如くむしろ有害な措置がとられたことも当時の状況としては已むを得なかつたと考へられるのであり、狭心症発作に引続いた已むを得ない治療上の不適切な措置が発作の結果に加はつて死の結果を来たしたのであるから狭心症の発作が勇の死亡の重要な原因であることは明らかである。

以上判示した処から勇の死亡が甲板長としての漁撈作業に従事したことに起因するものと云ふことができる。そこで次は右死亡の原因となつた狭心症の発作が勇の従つた船員としての職務の、社会的に見て内包すると考へられる危険性の範囲内の事柄であるかどうかの点である。社会的に見て危険性の範囲内と言ふことは経験則上後行事実を発生せしめ易い状況乃至要件を先行事実が具へて居ると言ふことが一般的に合理的に是認されることである。ところで前記鑑定の結果よりも知る得る如く狭心症の発作は主として冠状動脈又はその大なる枝の血塞又は血栓成生による大なる心筋梗塞に起因するもので通常は肉体的労働により誘発されることが多いことが認められるが勇が第一回の発作を起こしたのは前示認定の通り網のワイヤー捲取作業をして居た時であり、作業状況の検証の結果並びに証人松脇政吉の証言を綜合すると、右作業は捲取るにつき可なりの速度を要求されるもので非常に激しく身体に何等の故障のない人でも半捲もすると顔色も蒼白になる程のものであることが認められるのであつて、ワイヤー捲取作業が極めて激烈な労働であることは明らかである。鑑定人増田素一郎の鑑定の結果によると勇の耐え得たであらう労働の程度を科学的に追及する方法はもはやない様である。従つてこの点についてはある程度の推測による外はない。右鑑定の結果は、勇の死亡と言ふ事実から逆に推察して、勇が重労働には耐え得なかつたと考へられるとして居るのであるが、直接どの程度の労働と言ふことは明らかにして居ない。前述の如く勇の第一回発作の起きた時のワイヤー捲取作業が極めて激烈なものであつたこと、右鑑定の結果によれば勇が第一回発作後絶対に必要な安静を守つて居れば恐らくは当時死亡する様なことはなかつたであらうと認められ、更に第二回の発作も痙性多尿の排泄を見、発作としては一応終了したことが認められ、更にそのことが、他にコロダインの極量を超えた投与と言ふ要因が加はらなければ或ひは死亡する迄には至らなかつたのではないかと推察せしめるものであること、これらの事実を綜合すれば、勇は漠然とした標準ではあるが余り激しくない労働であるならば充分に耐え得たものではないかと考へられるのである。しかも、不適切な投薬並に一回の発作後の再就労の如きは、既述の如く医師、その他の医療施設のない本件漁船については、多分に起り得る事柄であることを思へば勇の死は、本件底曳網漁撈作業に通常内在する危険性の範囲内の事故と解するのを相当とする。

上来判示したところにより勇の死亡は職務上の事由に因るものと言ふべく、職務外の事由に因るものとの認定の下に為された本件審査決定は違法であつて取消を免れないものである。

よつて訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第九十二条但書を適用して全部被告の負担とすることとし、主文の通り判決する。

(裁判官 毛利野富次郎 桑原正憲 山田尚)

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